hinako

なんでもあり

人形

深い森の中。

細い小道から少し外れた木の幹に、人形は座っていた。

足を放り出し、かろうじて上に伸びた背骨の上に、今にも落ちそうな頭がだらんと垂れさがり、手のひらを空に向けて肩を落とした人形。

 

人形はずーっと何年も誰にも気づかれずにそこに座っていた。

小鳥が足にのろうとも、木の葉が顔にひらりと落ちても、ぴくりともせずに座っていた。

 

森のとても深い場所で、小道もあまりに細いので、めったに人間は通らない。

なんでこんなところに人形がいるのかも、人形自身も覚えてなどいなかった。

 

ぼふぼふぼふ、と規則正しい音が近づいてくる。

(人間だ)と人形は声に出さずに心のなかでつぶやく。

しかし、人間はぼふぼふぼふ、と遠ざかる。

(はあ)と人形は音を出さず、心の中で溜息をつく。

 

景色は何も変わらないまま、木々の色や音が変わっていくだけで

人形は何年も何年もそこに座っていた。

たまにやってくる人間は、誰も人形に気づかないまま通り過ぎていく。

何かが変わる貴重なチャンスがまた過ぎ去ってしまった。

人形の溜息はそんな思いで出たのだった。

 

また、木々の色が変わり、音が変わった。

あたりは白くなり、静かな森はより一層静かになった。

 

静けさの中に、ごっごっご、という音が近づいてきた。

(人間だ)人形は声に出さずに心の中でつぶやいた。

 

ごっごっご、という音は目の前までやってきた。

真っ白な中に、帽子の赤がちらりと見えていたものだから、人間の目に入ってきたのだった。

人間はひょいっと人形を手に取り、腕を持ち上げ、足を揺らした。

ずーっと動かしていなかったものだから、人形の関節は固く、ぎこちなく動いた。

人間は背中のリュックにぽいっと人形を差し込み、道を進んだ。

 

人間の背中に担がれた人形は目を見開いた。

今まで目の前に見えていた小道がこんなにも長く伸びていただなんて。

今まで目の前に見えていた木の枝がこんなにも低かっただなんて。

今まで目の前に見えていたすべてが、違って見え、別世界にいるようだった。

 

人形は人間と共に旅をした。

あたりが暗くなると、火がたかれ、人間と一緒に火の前に座った。

人間と一緒にテントに入り、あたりが明るくなると背中に担がれ森の中を揺れながら進んだ。

それは何度も何度も繰り返された。

別世界は日常の世界となった。

人間は暗くなると横たわり、明るくなると歩いた。

 

世界は暗くなったり明るくなったり。

今までもそうだったが、人形はだからといって何もしなかった。

ただ眺めるだけだった。

しかし人間は違った。

暗くなると横たわり、明るくなると歩く。

不思議だった。

また、人間はよくしゃべっていた。

上の方についている穴から音がした。

「おはよう」「寝ようか」「いただきます」「きれいだろう」

そんなことを言った。

それもまた、人形にとっては不思議だった。

人形に同じことは出来なかった。

どこも動かすことは出来なかったからだ。

 

人間はいつものように歩いていた。

しかしなんだかいつもと様子が違った。

いつもよりずっと明るくなった。

いつも見えていた木々が遠ざかっていった。

 

人間はリュックを下ろし、人形をつかんだ。

人形は人間と同じ方向を向いた。

 

初めてこの人間と出会って別世界に目を驚かせた時よりも、ずっとずっと目を大きく見開いた。

目の前には、大きな大きな夕日が沈もうとしていた。

「太陽だよ、きれいだろう」人間は言った。

(たいよう、きれい)人形は声に出さずに心の中でつぶやいた。

人形は初めて太陽を見た。

2人はその太陽が沈むまで、じっと太陽を見つめていた。

大きな丸い太陽が、隠れて端まで見えなくなると、あたりは暗くなった。

 

(これが、世界を明るくしていた光、たいよう)人形は心の中でつぶやいた。

人形はその時初めて、「太陽」を知り、「おはよう」を知り、「おやすみ」を知り、「きれい」を知り、「一日」を知った。

人形はその時初めて、自分は「知らない」世界の中で生きていたことを知った。