hinako

なんでもあり

共有

私たちは、今、楽しさを共有することが出来る。

笑いあっている。幸せを感じている。

だけど、私は彼に辛さや悲しさを共有することはできない。

だって、人生で最も辛く悲しかったあの時、彼は私のそばにいなかった。

私が彼を想って泣いたあの1年の間、彼は他の子と楽しんでいた。

彼が、いくら辛い思いをしてその子と別れたのだとしても、

私の辛さを理解することは出来ない。

私と付き合っている限り、私の気持ちを理解することは出来ない。

私は、人生最大の悲劇を胸に、今後どんなことも立ち向かうことが出来る気がする。

その時、彼は必要ない。

できれば、私が立ち直る時間の間、一秒たりとも近づかないでほしい。

私が回復するまで、私に触れないでほしい。

私が立ち直る糧となるのは、あなたと別れたときの感情だから。

 

過去

高校3年生から4年半付き合った彼と別れた。

 

彼は別れた3か月後に新しい彼女を作った。

別れた後も会っていたのに、他に好きな人がいるなんて気づきもしなかった。

自分自身の気持ちで精いっぱいだったから。

どんなことがあっても、彼は私から離れないって、最後まで思ってた。

すごく、裏切られた気分だった。

誰よりも信頼してる人だった。もう誰も信用できなくなった。

信用した自分が悪かった。「信用」してると思ってる自分が悪かった。

「信用」じゃなくて「期待」だ。「裏切り」じゃなくて「心変わり」だ。

私たちが別れた1年間で彼は新しい彼女と10か月付き合った。

私たちは復縁した。

 

やっぱり好きだと何度も思う。「好き」が何かわからないけど。

前より優しく接してくれる気がするし、愛されているのも実感する。

だけど、立ち直れない過去がある。トラウマがある。挫折がある。

一度離れた彼の心。

別れていた頃に言われた言葉。

「顔が今の彼女みたいだったら」「今の彼女の方が楽しい」

その言葉は、今でも変わらないでしょう?

私のもとに戻ってきたとき、「美人は3日で飽きるっていうから」って。

彼氏が可愛いと見せてくる女の子、元カノに似てるし。

「元カノの方が楽しかったんでしょ?」って聞くと、「あの時は時間に余裕があったから」って。

私たち、なんで寄り戻したんだろう。なんで、私のところに戻ってきたの。

 

4年半も付き合ってたから、家族みたいな存在で、きっと気も合う。

だから、これからも仲良くやっていけるポテンシャルはある。

目の前の彼だけ見て、頑張ろう!って思う時もあれば、

過去を思い出して、不安で、復縁したことさえ嫌になることもある。どうしようも出来ないけど。

どうしようも出来ないのに。

 

別れる前みたいに、純粋に「好きだ」とは、もう思えなくなったのね。

暗くて狭い所は、不安な気持ちになる。

悪い想像力を掻き立てたり、ネガティブな考えに導いたり。

でも、一人暮らしの夜は暗くて、一人暮らしの部屋は狭い。

ぼーっとベッドに入っていると、いろんなことが不安になって、

不安で自分がバラバラになって、ぽんってベッドに取り残される。

だれかが私の手をとって、私をつなぎとめててくれれば、

細い糸でつながった私は、なんとか私を保てるだろうに、

手を取ってくれる人はこの部屋には誰もいない。

誰かがいてくれないと立てない私は、自立してないといわれるかもしれない。

独りでスンっと生きている人はどうやって生きているんだろう。

独りでスンっと生きていくことが良いことなのかもわからないけれど、

そうやって生きていけるなら、どれだけ素敵な人生だろう。

ただ手を握ってくれるだけでいいから、

私は1人で生きているんじゃないんだと、感じることができればいい。

あとは自分の力で、なんとか生きていけるから。

創ること

特に趣味はないけれど、強いて言えば映画鑑賞や読書。

映画も本も、時々の気分で見終わった後の感想が変わる。

「いい話だった」で終わるときもあるし、

ドンピシャりな作品に出合えば共感と教訓が得られ、

勇気があふれ、前向きな気持ちになる。

 

失恋したとき、

私はマーガレット・ミッチェルの『風と共にさりぬ』を読んだ。

度重なる逆境を目の前に、弱腰にならず、立ち向かい続けるスカーレットに勇気をもらった。

「全部明日考えよう」というセリフが好きで、辛い時に唱えるようになった。

「明日考えよう」というセリフは村上春樹の『スプートニクスの恋人』でも登場する。

生きていくうえで、この言葉は自分自身の強い味方になってくれると私は思う。

実際、夜の疲れ切った鈍い頭で何を考えても上手くいかないものだ。

まして、失恋のように身体に影響を及ぼしそうなほど痛む心を抱えている時に、

考え事をしたところで悪くなる一方だった。

涙が止まらなくなって、泣き疲れて眠った後の朝は、

目覚めた瞬間に衝撃を受けたほど心が痛みを忘れていた。

また、次第に心がズキズキしてきたけれど、

眠ることの偉大さを、文字通り「痛感」した。

『風と共にさりぬ』の終盤で、スカーレットはついにレットを愛していたことに気づく。しかし、時すでに遅しで、レットのスカーレットへの愛は冷めてしまっていた。

愛することがどれほど精神をすり減らすものでも、愛とは儚いものであり、

自分ではない他人の心に身をゆだねる、一種の運でもあると私は思う。

それでもスカーレットは「全部明日考えよう」と最後を締めくくっている。

 

映画『マリッジ・ストーリー』の終盤、

夫と離婚したい妻から、夫へ宛てられた手紙に「矛盾しているかもしれないが、私は夫を愛している」と書いている。

愛しているにも関わらず、互いの幸せのために離れることを選んだ夫婦はそれぞれの道を歩み出す。

「愛しているが、離婚したい」という一見矛盾した考えは、単純に2つの意味だけで出来ているのではなく、複雑な心の内から選び抜き取られただけの言葉だと思う。

私たちの心の中は、言葉に出来ないほど複雑で、矛盾に満ちていている。

 

私の失恋も、複雑な状況と心境にあった。

「悲しみ」や「辛さ」といった単純な言葉では表現できない、

やり場のない感情を抱えていた。

その感情は自分の力ではどうすることも出来ないし、

時間が解決してくれるのを待って耐え続けるしかなかった。

そんな時に映画鑑賞や読書をすると、

自分の感情がきれいに言語化され表現されているように感じた。

気持ちが少しずつ整理され、心がすっと軽くなった。

絡まってほどけなくなった糸が、一本ずつすっと抜き取られるみたいに。

どうしようもなくなった絡まった糸とたちは、

こんなにもきれいにほどけるものなのか。と驚くほど映画や小説は人の心情を上手く表現していた。

この糸を集めることが人生の楽しさだと思う。

そして、糸をほどく快感が映画や本にはあると思う。

その糸が固く、大きく絡まれば絡まるほど、

映画や本によって解かれていく快感は大きくなる。

それが、映画や本の魅力だと私は思う。

3つの天国

「天国」について、明確でなくてもなんとなくイメージをしたことはあった。

子どもの頃は、「人を殺したら地獄に、悪いことをしなかったら天国に行ける」

なんて教えられたり、「天国にはご先祖様がいる」と言われたり

「天国」の明確な概念は知らなくとも、「天国」の存在は知っていた。

物語や、キリスト教的なイメージでしかなく、しっかりと教えられることのなかった

「天国」はみんなの頭の中で様々な形を描いている。

 

1つ目の「天国」 みんな集約バージョン

「死んだら天国に行く」そう言われてきたものだから、よっぽどの罪を犯して地獄に行っていない限り、みんな同じ天国に行くと思っていた。

だから、死んだら憧れの歴史上の人物に会えるのではないか。

何世紀もの人々が集まってしまったらぎゅうぎゅう詰めじゃないか。

虫も動物も集まるのなら、短命で人間より圧倒的に数の多い虫で天国はひどい状況なんじゃないか。

などなど、嬉しいこともあるけどひどい世界かもしれないという不安もある。

 

2つ目の「天国」 3つ目のステージバージョン

人間には3つのステージがあると考える。

1つ目は、お母さんのおなかにいる時。

2つ目は、現世。

3つ目は、天国。

現世での行いによって、3つ目のステージのレベルが変わり、そのステージで私たちは再び人生が訪れるのだ。

会いたい人には時空を超えて会うことができ、上のレベルには行けないが、下のレベルには自由に行き来することができる。

私たちの人生はまだまだ途中なのかもしれない。

 

3つ目の「天国」輪廻転生を待つバージョン。

仏教の教えでは、生命は生まれ変わり輪廻転生を行う。

日本では、仏教のそんな教えもなんとなく聞かされる。

目の前の虫は、前世では人間だったかもしれない。私も悪いことをしたら、次は虫にされるかもしれない。なんて思ったこともある。

テレビで、あなたの前世は武士でした。なんて話も聞く。

だから、天国に行ってもそこに留まるわけでなく、生まれ変わるのを待つだけなのかもしれない。

しかも期限は不明で、天国に来て何日かで生まれ変わりを宣言されるかもしれないし、

何十年も天国で生まれ変わるのを待っているかもしれない。

それでも、会いたい人には時空を超えて会うことができる。

なんともドキドキハラハラな天国もあるかもしれない。

 

誰も死んでいないからわからない「天国」。

死んだ者の話は聞けないから結局わからない「天国」。

想像が膨らみ続けるが、かく言う私は、死んだら無だと「天国」の存在は全く信じていない。

 

人形

深い森の中。

細い小道から少し外れた木の幹に、人形は座っていた。

足を放り出し、かろうじて上に伸びた背骨の上に、今にも落ちそうな頭がだらんと垂れさがり、手のひらを空に向けて肩を落とした人形。

 

人形はずーっと何年も誰にも気づかれずにそこに座っていた。

小鳥が足にのろうとも、木の葉が顔にひらりと落ちても、ぴくりともせずに座っていた。

 

森のとても深い場所で、小道もあまりに細いので、めったに人間は通らない。

なんでこんなところに人形がいるのかも、人形自身も覚えてなどいなかった。

 

ぼふぼふぼふ、と規則正しい音が近づいてくる。

(人間だ)と人形は声に出さずに心のなかでつぶやく。

しかし、人間はぼふぼふぼふ、と遠ざかる。

(はあ)と人形は音を出さず、心の中で溜息をつく。

 

景色は何も変わらないまま、木々の色や音が変わっていくだけで

人形は何年も何年もそこに座っていた。

たまにやってくる人間は、誰も人形に気づかないまま通り過ぎていく。

何かが変わる貴重なチャンスがまた過ぎ去ってしまった。

人形の溜息はそんな思いで出たのだった。

 

また、木々の色が変わり、音が変わった。

あたりは白くなり、静かな森はより一層静かになった。

 

静けさの中に、ごっごっご、という音が近づいてきた。

(人間だ)人形は声に出さずに心の中でつぶやいた。

 

ごっごっご、という音は目の前までやってきた。

真っ白な中に、帽子の赤がちらりと見えていたものだから、人間の目に入ってきたのだった。

人間はひょいっと人形を手に取り、腕を持ち上げ、足を揺らした。

ずーっと動かしていなかったものだから、人形の関節は固く、ぎこちなく動いた。

人間は背中のリュックにぽいっと人形を差し込み、道を進んだ。

 

人間の背中に担がれた人形は目を見開いた。

今まで目の前に見えていた小道がこんなにも長く伸びていただなんて。

今まで目の前に見えていた木の枝がこんなにも低かっただなんて。

今まで目の前に見えていたすべてが、違って見え、別世界にいるようだった。

 

人形は人間と共に旅をした。

あたりが暗くなると、火がたかれ、人間と一緒に火の前に座った。

人間と一緒にテントに入り、あたりが明るくなると背中に担がれ森の中を揺れながら進んだ。

それは何度も何度も繰り返された。

別世界は日常の世界となった。

人間は暗くなると横たわり、明るくなると歩いた。

 

世界は暗くなったり明るくなったり。

今までもそうだったが、人形はだからといって何もしなかった。

ただ眺めるだけだった。

しかし人間は違った。

暗くなると横たわり、明るくなると歩く。

不思議だった。

また、人間はよくしゃべっていた。

上の方についている穴から音がした。

「おはよう」「寝ようか」「いただきます」「きれいだろう」

そんなことを言った。

それもまた、人形にとっては不思議だった。

人形に同じことは出来なかった。

どこも動かすことは出来なかったからだ。

 

人間はいつものように歩いていた。

しかしなんだかいつもと様子が違った。

いつもよりずっと明るくなった。

いつも見えていた木々が遠ざかっていった。

 

人間はリュックを下ろし、人形をつかんだ。

人形は人間と同じ方向を向いた。

 

初めてこの人間と出会って別世界に目を驚かせた時よりも、ずっとずっと目を大きく見開いた。

目の前には、大きな大きな夕日が沈もうとしていた。

「太陽だよ、きれいだろう」人間は言った。

(たいよう、きれい)人形は声に出さずに心の中でつぶやいた。

人形は初めて太陽を見た。

2人はその太陽が沈むまで、じっと太陽を見つめていた。

大きな丸い太陽が、隠れて端まで見えなくなると、あたりは暗くなった。

 

(これが、世界を明るくしていた光、たいよう)人形は心の中でつぶやいた。

人形はその時初めて、「太陽」を知り、「おはよう」を知り、「おやすみ」を知り、「きれい」を知り、「一日」を知った。

人形はその時初めて、自分は「知らない」世界の中で生きていたことを知った。

 

感情

失恋の時の悲しみは、心にぽっかりと穴が開て、

それの傷跡が痛いのか、それを埋めようと心が収縮しているのか、

痛くて、辛くて、言葉にできない。

痛みは、愛が大きいほど痛さを増して、

一生分の涙を流す。

2ヶ月間、泣いても泣いても終わらない辛さが、毎日毎晩襲った。

 

ふと振り返ると5ヶ月目。

なんだか泣くことに満足する。

だってこんな感情、次の恋愛に感じられるかわからない。

次がハッピーエンドに終われば、

失恋に涙した感情、失恋の悲しさは一生味わうことができない。

 

短い人生に、失恋という歴史を刻んだことに、

私は少し満足する。

失恋は、人間としての一つのイベントではないだろうか。

他人から与えられることも、共有することもできない感情。

その感情の一つを私は手に入れる。

 

次があるかわからない失恋の悲しみ。

人生の一場面を描く失恋の悲しみ。

単なる「悲しみ」では言い表せない感情を、

精一杯感じて、そのために大げさなほど泣き、

気が済むほど泣いたら、この感情を味わいつくしたことに私は満足する。